【①嶋谷市左衛門について】
2024年9月11日 令和6年第3回議会定例会
一般質問
小笠原に初めて正式に調査として入った江戸時代1675年(延宝3年)。
その巡検の中心人物が遠洋航海技術を持った長崎の嶋谷市左衛門さん。
小笠原では伝説となっている小笠原貞頼さんの方があまりに有名で、実はあまり知られていない印象があります。
しかし来年がその小笠原発訪島から350年の節目となります。
この偉大な功績に対して村はどう考えるのか?記念事業を行ってはどうか?を質問します。
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議事録
【嶋谷市左衛門について】
(宮城ジャイアン)
小笠原が日本国に属する大きな調査と記録を行った長崎市の嶋谷市左衛門さんについて質問をします。
皆さんは嶋谷市左衛門さんをご存じでしょうか?
今から354年前の1670年の江戸時代。現在の徳島県のみかん船が和歌山を発って漂流し、母島に漂着しました。
その船乗りたちは限られた材料で必死に小舟を作り、なんとか父島~八丈を経て、伊豆下田に辿り着きます。
その報告を受けて江戸幕府は巡検を計画し、船は当時長崎で建造され、回漕に使われていた唐船(中国風の形の船)がありました。その船頭が嶋谷市左衛門さんなのです。
1675年に当時の航海術を駆使して、下田を出港し、八丈島を経由して約20日ほどで父島上陸に辿り着きました。
40名の船乗りだったと記録されています。
約1か月強の調査で様々な標本を持ち帰り、地図を作成して、日本の領土であることを記した小さな祠を建てたそうです。
この事が後に国際社会に認められて、1876年の明治9年に小笠原は日本の領土として認められました。
結果、小笠原諸島には私たちが今なお暮らし、小さな島国である日本の排他的経済水域面積を世界6位にまで押し上げることになっています。
国益に対しても、とても重要な意味を持つことになっています。
村として、この功績をどう考えますか?
来年、2025年はそんな嶋谷市左衛門さんが小笠原に来て350年の節目の年になります。
何かしらの記念事業を行ってはどうでしょうか?
(渋谷村長)
嶋谷市佐衛門についてのご質問にお答えします。
直接的には、聟島列島から母島列島を巡検し、その記録が日本の領土となる根拠となっているというのが功績と言えます。
その後硫黄列島や南鳥島、沖ノ鳥島が日本の領土になる起点となり、更には広大な排他的経済水域を持つに至るのは、嶋谷市左衛門の巡検によるものと考えれば、私は海洋権益の保全が叫ばれる今の時代だからこそ、その功績を村よりも国として評価すべきではないかと思っております。
ただ、残念ながら私もそうですが、その功績をしっかりと理解できている方は少ないというのが率直な感想であります。
まずは、村から村民に対して、また国や都に対して発信していきたいと思っております。
その発信方法として、350年という節目を前に村内において、記念事業の実施組織を立ち上げ、協力いただける関係者や村民にも協力いただきながら、嶋谷の功績を広く知らしめたり後世に残せる事業を実施したいと考えております。
なお、嶋谷のゆかりの地である長崎市においても、嶋谷の功績を発信することを検討したいとのお話も伺っております。
近いうちに長崎市を訪れて、まずは意見交換してまいりたいと考えております。
【宮城ジャイアン】
村長自身も長崎と交流する意気込みを確認できて、とても頼もしいと感じました。
期待をしています。ぜひよろしくお願いします。
過去に長崎市で平成25年9月の定例会で中村照夫議員が、令和4年には西田実伸議員が、今年6月には長崎県議会で白川鮎美議員が嶋谷市左衛門さんについて議会で質問などを行っています。
また2021年には長崎で「島谷市左衛門を顕彰(けんしょう)する会」が発足しています。
僕自身も知識が浅く、今回の事がご縁で嶋谷市左衛門さんのことを深く知ることになりました。
村長がおっしゃるように、この小笠原においても未だ理解が少ないので、この貴重なご縁を350年の節目にしっかりと多くの人にお伝えできると嬉しいです。
では、これまで小笠原と長崎で嶋谷市左衛門さんに関わる交流はどのようなものがあったでしょうか?
(持田教育課長)
嶋谷市左衛門に関わる事としましては、平成25年に視察で中村照夫長崎市議会議員が来島され、嶋谷市左衛門の存在を知り、その後市議会で質問されています。
また、小笠原村議会では平成26年の長崎県小値賀町視察に先立ち、長崎市にある嶋谷市左衛門の墓を訪ねております。
また令和3年に長崎市では有志による「嶋谷市左衛門を顕彰する会」が設立されていますが、その会長を務められている松尾龍之介氏が平成6年に小笠原を訪ねられております。
【宮城ジャイアン】
ありがとうございます。
松尾様も小笠原に来て初めて自身の地元長崎でこんな偉人がいたことを知ったとおっしゃっていました。
桐川教育長にも嶋谷市左衛門さんについて、その功績に対する評価や想いをぜひお聞きしたいです。
(桐川教育長)
嶋谷市左衛門さんの功績に対する評価について答弁します。
今から約354年前の1670年1月12日ごろ、江戸時代に徳島の7人乗りの運搬船が和歌山のみかんを積んだまま母島に漂着しました。
船頭の勘左衛門は本諸島最初の犠牲者で、生き残った船乗りたちは船の廃材で小舟をつくり、必死に船の修理を行い、なんとか父島~八丈を経て伊豆下田に辿り着きます。
この島は大小18の島からなり大きな島が4つあり、そのうちの一つには大きな入り江があったとの報告を聞いた江戸幕府が本諸島の探索に必要を感じ、伊豆代官・伊那忠易に、当時鎖国であっため秘密理に巡検を命じました。
当時は本諸島へ渡海可能な和船はなく、これを可能にしたのが長崎代官・末次平蔵の廻米船です。
末次平蔵はみかん船遭難の前年1668年、幕府の命により500石の廻米船造船に着手していました。
この新船建造を任されたのが嶋谷市左衛門です。
当時は設計図もなく京都清水寺の絵馬などを頼りに造船しました。
これは島谷市左衛門の功績です。
この嶋谷船が無人島巡検に充てられました。
1675年に無人嶋を巡検した船頭が長崎の嶋谷市左衛門です。
約1か月強の調査で様々な標本を持ち帰り、地図を作成して、日本の一部であることを脇書きした春日、八幡、伊勢三社の勧進社殿を建てたといわれています。
ちなみに宮之浜の地名は嶋谷市左衛門の渡海に由来すると言われています。
これも島谷市左衛門の功績です。
この報告を受けた幕府は本諸島を無人嶋(ぶにんじま)と公称し、伊豆代官の管轄下におきました。
その後嶋谷船は回漕することなく、鎖国政策の我が国にとって外洋航海ができる船とされ、危険視され解体されてしまいます。
秘密裡の行われたにもかかわらず無人嶋の伝聞は広く民衆に知れ渡りました。
その後、無人嶋は、嶋谷市左衛門の渡海より70年前の1593年小笠原貞頼が本諸島に渡海し領有したとの文書により、1861年(文久元年)幕府は無人嶋を小笠原と公称しました。
1876年(明治9年)明治政府により小笠原は日本の領土として国際的に認められました。
本村にとっての嶋谷市左衛門の評価ですが、現在の小笠原諸島を幕府の命を受け調査した最初の人物として評価されるべき人物です。以上でございます。
【宮城ジャイアン】
すごく詳細で確かな答弁ありがとうございます。
鎖国中の江戸時代でありながら、八丈、青ヶ島の遥か南の無人島・小笠原諸島への遠洋航海の技術を持ち、若いとは言えない69歳という年齢で果たした方でした。
当時の稀な航海術、無人島だった時の島の景色を想像すると、ワクワクが止まりません。
そして、この功績はより多くの方に知って頂きたいですし、島の子供達の歴史の学び、観光の素材、島民の知識としてもしっかりと伝わって行ければと思います。
今後ともよろしくお願いします。
※実際の質疑で私、教育長の発言の中で、徳島のみかん船が漂着した年数について、誤った年数を離しています。
345年前ではなく、354年前が正しい年になります。
申し訳ありませんでした。